画面を間に挟むほど食の作り手は遠ざかるという通念を覆すぐっと身近になる現実

画面を挟むほど作り手が近づく逆説

食にまつわるさまざまな情報を画面越しにやり取りするという営みは、品を手がけた作り手の体温や手のぬくもりを削ぎ落とし、品と人とのあいだにかえって冷たい隔たりを生んでしまうものだと、これまで長らく思われ続けてきました。

ところが、実際にデジタルの道具をいくつか売場へ持ち込んでみると、これまで名も知られぬまま静かに棚へ並んでいた品の背後から、それを手がけた作り手の顔や肉声が浮かび上がってきて、むしろ品と客との距離が、じわじわと縮まっていきます。

産地から売場までの物理的な隔たりが大きければ大きいほど、対面での手渡しの言葉だけではとうてい伝えきれなかった作り手の思いが、画面という一枚の窓を通してかえって豊かに届くという、一見するとあべこべな現象が、そこに生まれてきます。

百貨店の食のフロアを日ごろ訪れる客は、いまや品の味の良し悪しだけでなく、その一品が誰の手によってどのように育てられ、あるいはこしらえられたのかという背景の物語のほうにも、以前にも増して深く心を寄せるようになってきています。

デジタルは人と人とを遠ざけてしまう冷たい仕組みにすぎないという根強い先入観をいったん脇へ置いてみると、それはむしろ、遠く離れて暮らす作り手と売場の客とを、あらためて結び直すためのあたたかな橋渡し役として、静かに働き始めます。

本来なら人を隔てるはずの一枚の画面が、なぜかえって人と人とを近づけていくのかという逆説の仕組みを丁寧に解きほぐしていくと、そこには作り手の存在を目に見えるものへと変えていく、いくつもの細やかな工夫が静かに息づいていると気づかされます。

隔たりを本当に埋めてくれるのは、より高性能な機械そのものではなく、その機械を通していったいどれだけ作り手の素顔を客へ手渡せるのかという工夫の細やかさであり、そこにこそ、この逆説を静かに成り立たせている本当の鍵が潜んでいます。

品に添えられた作り手の履歴をたどる

売場の棚に何気なく並んでいる品の一つひとつには、それを育てた土地の風土や、実際に手がけた人のこれまでの来歴という、貼られた値札の数字だけでは決して語りきれない豊かな背景が、必ずといってよいほど静かに横たわっています。

品に小さく添えられた印を客が手元の端末でそっと読み取ると、その品を手がけた作り手の名前や暮らしている土地、そして栽培や仕込みにかけてきた手間の物語が画面へ次々に立ち上がり、それまで無名だった一品が、急に固有の顔を帯び始めます。

どの季節にどのような手順で育てられ、いったいどんな水や土に支えられてきたのかという履歴を客がたどれるようになるだけで、客は品の向こう側に確かにいる人の存在を身近に感じ取るようになり、品を選び取るその手つきそのものまでもが、変わっていきます。

作り手の顔写真や、日々の作業の様子を映したごく短い映像などが品に添えられていれば、そっけない文字だけの説明よりもはるかに強く作り手その人の人となりが伝わってきて、品と作り手とを結ぶ細い糸が、いっそう確かなものになっていきます。

とりわけ日々の食事に繰り返し取り入れていく品ほど、いったい誰が手がけたものなのかという安心が品を選ぶ決め手になりやすく、履歴をたどれるこうした仕組みは、味わいや価格と並ぶ新たな判断のよりどころとして、売場に静かに根づきつつあります。

作り手の履歴を客がたどれるようにしていく取り組みは、単なる情報の付け足しなどではなく、品に確かに宿っている手仕事の重みを客の側へそっと手渡していく営みであり、いつもの見慣れた売場の棚に、目には見えない厚みをゆっくりともたらしています。

そうして品の背後にある物語を知った客は、ただ安いからという理由だけで選ぶのではなく、この人の手仕事をどうか応援したいという気持ちで手を伸ばすようになり、何気ない一つの買い物が、作り手への静かな声援へと変わっていきます。

遠い産地と売場を結ぶ双方向の場

作り手の姿をこちらから一方的に眺めるだけの仕組みからさらに一歩を進めて、売場を訪れた客と遠くの作り手とが同じ時間を分かち合い、互いに言葉を交わし合えるような場が、売場のデジタル化によって、少しずつ開かれ始めています。

遠く離れた産地の作業場と売場のフロアとを一本の映像でつなぎ、収穫や仕込みの様子をその場で生き生きと中継すれば、客は品ができあがっていくまさにその瞬間に立ち会うことができ、気になったことを作り手へ直に問いかけることさえできるようになります。

いったいどのように味わえば最もおいしいのか、どのような品と合わせれば持ち味が引き立つのかといった素朴な問いに、作り手が自分自身の言葉でその場で答えてくれるやり取りは、店員を介した通り一遍の説明とはまた違う、生き生きとした手応えを客に残します。

画面を通じて客から寄せられた率直な感想や礼の言葉が、その場ですぐさま作り手のもとへ届いていくという双方向の流れは、これまでどうしても一方通行になりがちだった売り手と買い手の関係を、対等な対話のかたちへと、少しずつ組み替えていきます。

産地と売場という、本来ならばそう容易には行き来のできない離れた二つの場所が、映像と通信の力によってひとつの座へと重なり合うことによって、その隔たりの大きさが、かえって思いがけない出会いの喜びを、より鮮やかに際立たせてくれます。

こうした双方向の場は、催事の会期といったごく限られた特別な時だけの催しにとどめておく必要はなく、日々の売場のところどころへ小さく織り込んでいくことで、客が通うたびに新たな作り手と出会えるという、ささやかな楽しみを生み出してくれます。

こうして生まれた作り手との顔なじみの縁は、催事の会期が終わってしまってもたやすくは切れることなく、次に同じ産地の品が棚へ並んだそのとき、客が真っ先にその一角へ足を向ける、確かで温かな理由になっていきます。

作り手にも届く手応えという恵み

デジタルでつながることの恵みは、品を選ぶ側の客にだけ一方的に注がれるものではなく、日々汗を流して黙々と品を生み出している作り手の側にも、これまではなかなか得がたかった確かな手応えとなって、しっかりと返っていきます。

自らが丹精を込めて手がけた品を、いったいどのような客がどんな表情で手に取り、そしてどんな言葉を残してくれたのかという生の反応が届くことは、遠い売場で長らく顔の見えなかった作り手にとって、何ものにも代えがたい大きな励みになります。

たとえごく少量しか作ることのできない小さな作り手であっても、その品にまつわる物語を画面の力によって丁寧に伝えていければ、広い棚を占めずとも確かに存在を知ってもらえ、大量に作る者と同じ土俵で客に選ばれるという機会が、公平に開かれていきます。

客の率直な反応やその日の売れ行きが具体的な数として作り手のもとへ戻っていけば、次にいったいどれだけ仕込んでおけばよいのかという先の見通しが立てやすくなり、作りすぎや品切れといった無駄や取りこぼしを減らしていく、確かな助けにもなります。

売場のdxは、遠くの作り手と売場の客とをただ結び合わせるだけにとどまらず、両者のあいだで交わされるさまざまな情報を丁寧に巡らせることによって、作り手が安心して次の一歩を踏み出していくための足場までも、そっと整える役割を担っています。

互いに顔の見える関係がゆっくりと育っていくと、客はやがてその作り手の品を目当てに繰り返し売場へ足を運ぶようになり、一度きりで終わっていたはずの売り買いが、長く続いていく支え合いの関係へと、少しずつ確かに育っていきます。

作り手が客の手応えを励みに新たな品づくりへ果敢に挑み、その挑戦をまた客が喜んで支えていくという循環がひとたび回り始めれば、売場は単なる売り買いの場を超えて、作り手と客とがともに育っていく豊かな土壌へと変わっていきます。

つながりを本物にするための心得

つながりをより深めていくための便利な道具が、かえって人と人との距離を近づけていくというこの逆説を、絵空事で終わらせずに本物にしていくためには、いくつかの大切な心得を、売場の側があらかじめしっかりと携えておく必要があります。

画面に映し出していく作り手の物語は、見栄えばかりを気にして飾り立てた作り話であっては決してならず、実際に営まれている手仕事や産地のありのままの姿にどこまでも忠実であることこそが、客の信頼を長く保ち続けていくための、揺るがぬ土台になります。

デジタルの窓がどれほど雄弁に語りかけてきたとしても、品を実際にこの手に取り、その香りや手触りを自分で確かめてみたいという客の切実な願いが消えることはないため、画面での出会いは、対面の場を置き換えるのではなく互いに補い合う関係に据えます。

作り手にまつわる情報をあれもこれもと盛り込みすぎて客をかえって圧倒してしまえば、肝心の品そのものの魅力までもがぼやけてかすんでしまうため、伝える中身は思いきって要点を絞り込み、より深く知りたい客がその先へ辿っていける余地を残す加減が求められます。

百貨店が長い年月をかけて培ってきた、品をしっかりと見立てて客に細やかに寄り添う目利きの力は、デジタルの新しい仕組みと丁寧に組み合わさって初めて存分に生きるのであり、なにもかもを機械任せにしてしまうほど、作り手との縁はかえって痩せていきます。

つながるための手立てをただ闇雲に増やしていくこと自体を目的にしてしまわず、その先で作り手と客の双方が、はたして確かな手応えを本当に得られているのかを絶えず問い続けていく姿勢こそが、この逆説を絵空事に終わらせないための、何よりの要になります。

結局のところ、道具はあくまで人と人との縁を取り持つための脇役にすぎず、その舞台の主役はいつの時代も、丹精を込めて品を作る人と、その品に心を寄せる客の側にこそあるのだという一点を、売場は決して忘れずにいたいものです。

まとめ

画面を間に一枚挟むほど作り手はかえって遠ざかっていくのだという世間の思い込みは、実際にデジタルの道具を売場へ持ち込んでみると、むしろ両者の距離が確かに縮まっていくのだという事実の前で、いともあっけなく覆されていきます。

品に添えられた作り手の履歴を客がたどり、遠い産地と売場を一本の映像で結び、客の寄せた言葉が作り手のもとへ返っていくという一連の流れは、遠く離れて暮らす人と人とを、これまでよりもずっと確かなかたちで、あらためて結び直していきます。

品を作る側にも客の反応や先の見通しという恵みがしっかりと戻っていくことで、ごく小さな作り手にも棚へ並ぶ機会が公平に開かれ、一度きりで終わっていた売り買いが、長く続く支え合いへと育っていく確かな道筋が、はっきりと見えてきます。

ただし、この心強い逆説を本物にし続けていくためには、語られる物語の真実さを守り抜き、対面ならではの良さと丁寧に補い合わせ、伝える中身をあえて絞り込むという大切な心得を、売場の側が決して手放してしまってはなりません。

本来なら人を隔てるはずの道具を、人と人とを近づけていく一本の橋として使いこなせたそのとき、食を巡る売場は、味わいの奥深くにひそんでいる物語までも客へ手渡せる、たいへん豊かな場所へと、静かに姿を変えていきます。

画面のこちら側とあちら側にそれぞれ立つ人と人とが、はたして本当に心を通わせ合えるのかどうかは、結局のところ売場に立つ私たちの心配りひとつにかかっており、その地道な努力を惜しまない限り、この逆説はこれからも変わらず私たちの味方であり続けます。

遠さや隔たりをただ嘆くのではなく、それらをむしろつながりの深さへと転じていく発想を売場の側が携えたそのとき、食を巡る場は、作り手の顔つきまでもが見える確かなあたたかさを、これまで以上に豊かに取り戻していきます。