にぎわう催事の集客がじつは地道なデータの読み解きに支えられてきたという裏側の暴露

催事の集客を勘だけで進めていた頃の危うさを正直に打ち明けます

催事の企画に携わり始めたばかりの頃、来場する人の数は、出店の顔ぶれの華やかさと当日の天気しだいで決まるものだと思い込んでおり、集客の見通しをほとんど自分の勘だけで立てていたということを、まずは正直に打ち明けておきたいと思います。

人気の出そうな品をとにかく並べておけば、人は自然と集まってくれるはずだという楽観にすっかり寄りかかり、告知の量も出す時期も感覚だけで決めていたため、蓋を開けてみるまで結果がまるで読めないという危うさを、毎回のように抱え込んでいました。

好調に終わった催事と、思うように振るわなかった催事との違いをいざ問われても、あのときはたまたま天気が良かったからといった曖昧な説明しかできず、次にきちんと活かせるだけの教訓を、何ひとつ手元に残せずにいたのが正直なところです。

勘だけに頼るこうした進め方は、うまく当たったときにはたいそう華やかに見えるものの、いざ外れてしまったときに立て直すための手がかりがまるでなく、閑散とした通路と余った在庫を前にして、なすすべもなく会期の終わりを待つほかありませんでした。

来場が伸びなかった理由をあとから振り返ろうにも、いったいどの時間帯に人が薄かったのか、どの世代の客が来ていなかったのかという肝心の事実が何も残っておらず、反省すらも、あいまいな印象論の域をなかなか出られずにいたのが実情でした。

そうした行き当たりばったりの判断の積み重ねが、催事という場に対して客がそれまで寄せてくれていた信頼を、少しずつ静かに削り取っていたのだということに、当時の私はなかなか気づけずにいたと、いまあらためて振り返って認めざるを得ません。

この長く続いた危うさから、ようやく抜け出す転機となったのが、来場にまつわる記録を一つずつ地道に集め始めるという、いかにも地味で目立たない一歩のうちにあったのだということを、これから順を追って、包み隠さず明かしていきたいと思います。

来場の記録を集め始めて初めて見えてきた客層の偏りを告白します

勘だけに頼るこれまでの進め方に、いよいよはっきりと限界を感じて、思い切ってまず最初に手をつけたのが、いったいいつ、どのような人が催事を訪れているのかという来場の記録を、たとえ断片的にでも地道に集めて残していくという、たいそう目立たない作業だったことを、ここで打ち明けておきます。

入口での人数のおおまかな数え取りや、会員の来店の記録とを一つずつ突き合わせていくうちに、来場する人が特定の世代と時間帯とにはっきり偏っているという、それまでまるで見えていなかった事実が、少しずつその姿を現してきました。

たいそうにぎわっていると思い込んでいた昼下がりの時間帯が、実のところ特定の世代にひどく偏っており、働く世代が立ち寄りやすいはずの夕刻に、売場が驚くほど閑散としていたのだと知ったときの衝撃は、いまも忘れることができずにいます。

客層の偏りがこうしてはっきりと見えてくると、これまで良かれと思って並べ続けてきた品ぞろえが、じつは来ていない層の好みをまるで捉えられていなかったという、認めるにはたいへん耳の痛い現実までもが、次々と浮かび上がってきました。

集めた記録というものは、こちらの都合の良い思い込みを容赦なく突き崩してくる鏡のようなもので、自分たちが見たいと願っている景色ではなく、実際にそこで起きている来場の姿を、確かな数の裏づけとともに突きつけてくるものでした。

百貨店の催事は幅広い層に等しく開かれているのだという建前を長らく掲げながら、その実、ごく偏った層だけを相手にしてきたのだという大きな食い違いを、集めた記録は静かに、しかしどこまでも明確に、私たちへ告げていたのです。

この目をそむけたくなるような客層の偏りを、あえてまっすぐに直視したところから、いったい集めた記録をどのように使えば集客の穴を着実に埋めていけるのかという、次なる大きな課題へと本格的に踏み込んでいくことになったのだと、ここに正直に申し添えておきたいと思います。

過去の売れ行きから出店の顔ぶれを選び直してきた内実を明かします

客層の偏りがはっきりと見えてきた後に、あらためて本腰を入れて取り組んだのが、どの品がどの層にどれだけ売れたのかという過去の記録をもとにして、出店してもらう顔ぶれそのものを一から選び直していくという作業だったと、その内実を明かします。

これまでは、付き合いの長さや世間での評判の高さを頼りに出店を決めていましたが、実際の売れ行きを世代ごとに細かく並べ直してみると、評判ほどには数字がまるで伴っていなかった品が、思いのほかいくつも見つかってきたのです。

その一方で、地味で決して目立ちはしないものの、特定の層に対しては安定して売れ続けていた品が確かに存在しており、そうした堅実な顔ぶれをあえて厚くしていくことで、これまで来ていなかった層を呼び込むための糸口が、少しずつ見えてきました。

出店の入れ替えというものは、長年にわたって築いてきた関係が絡むだけに、たいへん気の重い判断でしたが、売れ行きの数字という誰にとっても共通の物差しがあったからこそ、感情に流されずに顔ぶれを組み替える踏ん切りをつけることができました。

売れ行きの記録を季節ごとに幾重にも重ねて読み解いていくと、まったく同じ品であっても時期によって売れ方が大きく変わってくるのだと分かり、会期に合わせて出店を差し替えていくという細やかな調整まで、できるようになっていきました。

こうした選び直しの精度は、店の側が着実に進めてきたdxによって、扱えるデータの幅がぐんと広がったことで確かに上がっていき、かつては勘だけではとうてい届かなかったほどの細かさで、出店の顔ぶれを整えられるようになってきています。

出店の顔ぶれを数字にもとづいて選び直していくというこの内実は、華やかな催事のにぎわいの裏側で延々と続いていく、ひどく地道で目立たない作業ですが、催事の集客という土台を静かに、それでいて確かに支え続けているのは、ほかならぬこの部分なのだと打ち明けておきます。

告知の出し方をデータで測り直して無駄打ちを減らした過程を白状します

出店の顔ぶれをひととおり整えた次に、あらためて本格的に向き合ったのが、催事の告知をいったいいつ、どこへ、どれだけ出せば人が実際に動くのかを、これまでのような感覚ではなく確かなデータで測り直すという、長らく避けてきた作業だったと白状します。

かつては告知の量を多く出せば出すほど、それだけ多くの人が来てくれるものと固く信じ込み、相応の費用をかけて広く知らせていましたが、来場した人に来店の手がかりを尋ねて記録してみると、その多くがまるで実を結んでいなかったのだと分かりました。

いったいどの告知を見て足を運んでくれたのかを、一件ずつ丁寧に突き合わせていくと、かけた費用の割にまるで人を動かせていない出し方と、たとえ控えめであっても確実に来場へとつながっている出し方とが、はっきりと分かれて見えてきました。

そこで、効き目の薄いと分かった告知への費用を思い切って削り取り、反応の良かった経路のほうへとまとめて振り向け直したところ、かける費用の総額をむしろ抑えながらも、来場する人の数はかえって伸びるという、確かな結果を得ることができました。

告知を出す時期についても、記録を丁寧にたどっていくと、来場の直前に届いた知らせほど強く人を動かしていたのだと分かり、早く出しすぎてしまったせいで忘れられていたぶんの無駄を、一つずつ順に削り落としていくことができました。

こうした無駄打ちを減らしていく作業は、これまで良かれと信じて続けてきた自分たちのやり方を、自らの手で否定していくことでもあり、認めるには相応の勇気が要りましたが、数字はいっさいの言い訳を許さず、改める後押しを静かにしてくれました。

告知の効き目を地道に測り直していくというこの過程こそが、限られた費用の中から最大の集客を引き出すための、何よりの鍵だったのだと、ずいぶんな遠回りの末にようやく腑に落ちたことを、ここに包み隠さず打ち明けておきたいと思います。

会期中の混み具合を読んで人の配置を変えてきた舞台裏を打ち明けます

催事に向けた準備の段階だけでなく、いざ会期が始まった後もなお、記録の読み解きという作業は途切れることなく続いており、会期中の混み具合を時々刻々と追いかけながら、人の配置を変え続けてきたその舞台裏を、ここで打ち明けておきたいと思います。

通路を行き交う人の流れや、会計の場に生じる待ち時間を注意深く追っていくと、混雑が特定の時間帯とごく一部の一角とに集中しており、しかもその混雑の山と谷が、日によって少しずつずれていくという傾向が、次第に見えるようになってきました。

混み合う頃合いをあらかじめ前もって読めるようになってくると、ちょうどその時間に合わせて売場の応援の人手を厚くしておき、待ち時間が大きく膨らんでしまうのを未然に抑えるという、先回りの手当てを打てるようになっていきました。

反対に人が薄くなりがちな時間帯には、試食や実演をあえてそこへ寄せて配することで、閑散としがちな谷の時間を静かに埋め、来場した人がいつでも快適に食事を選べる状態を、会期の全体を通してできるだけ保てるように、工夫を重ねていきました。

人の配置を動かすという判断は、以前であれば現場のその場の勘に委ねるほかありませんでしたが、混み具合の記録が手元に確かにあることで、いったいどこへ何人を回すべきなのかを、はっきりとした根拠をもって指し示せるようになりました。

会期の途中で新たに得られた記録は、その日のうちに翌日の段取りへとすぐさま反映されていき、初日に犯した反省を最終日までのあいだに何度でも作り直していけるという、以前にはとても望めなかったほどの機動力を、確かに生み出しています。

華やかに見える催事のにぎわいの、そのすぐ裏側で、こうした地道な数の読み解きと、それにもとづく細かな配置の手直しとが絶え間なく続けられているということを、表からはなかなか見えにくいものであるからこそ、あえてこの場ではっきりと打ち明けておきたいのです。

まとめ

催事のにぎわいというものは、その日の運や、出店の顔ぶれの華やかさだけによって生まれるものだと、恥ずかしながら私自身も長らく信じ込んできましたが、その根深い思い込みを裏側から静かに、しかし確かに覆してくれたのは、地道に集め続けてきた記録の、まさに一つひとつでした。

勘だけで進めていた頃の危うさをまず素直に認め、来場する客層の偏りをまっすぐに直視し、出店の顔ぶれと告知の出し方とを数字にもとづいて丁寧に選び直していくという過程を経て、集客はようやく、狙って再現できるものへと変わっていきました。

会期がいざ始まってからも、混み具合を丁寧に読んで人の配置を変え続けていくことで、初日に犯した失敗を最終日までのあいだに繰り返し立て直せるようになり、にぎわいをもはや運任せにはしないという確かな構えが、少しずつ整っていきました。

こうした一連の取り組みを足元から支えてきたのは、百貨店が地道に進めてきたデジタルへの投資であり、集めた記録を素早く読み解けるだけの環境が整ったことが、地道な作業の効き目を、何倍にも大きく押し上げてくれたのです。

表側からは、華やかに並ぶ品と、押し寄せてくる人の波しか見えてこない催事であっても、そのすぐ足元では、けっして目立たない数の読み解きが絶え間なく続けられているという事実を、あらためてこの場で打ち明けておきたいと思います。

にぎわいの裏側にひそむこうした地道な営みに、あえて光を当てておくことが、これから先、催事という場を大切に育てていこうとする人の助けにわずかでもなればと願いながら、ここまで包み隠さず明かしてきた次第です。

華やかににぎわう表舞台と、それを陰から黙って支え続ける地道な裏方のデータ作業とは、けっして切り離して考えられるものではないのだということを、この記事の最後にもう一度、自分自身への戒めと、明日への確かな手がかりの両方を込めながら、静かに書き添えておきたいと思います。